優しさ

 

優しい人間は損をする

何度も言われた

 

たまには諦めて厳しくしろ

俺なら自業自得として放っておく

自分が一番得しないよ

 

それはそうだ

わかってはいる

理解しているつもりなだけだ

理解とは

なんだろう

わかってるだけが理解なのか

まあそんなことはどうでもいい

実行できないと理解したなんて言えない

と言われそう

 

人間は掘り下げてしまえば

全て「自分のため」という部分に行き着く

私も考えた結果そうなった

 

誰かのために優しくするんじゃないのかも

 

まず一つの教えがあって

「自分がされて嫌なことはしてはいけない」

これは誰もが言われることなのでは無いのだろうか

これについて深く議論したことはない

だからか

私はすっかりこの考えに取り憑かれてしまった

そしてこの考えは成長と共に変化した

「自分がされて嬉しいことは他人にも」

ということになってしまった

聖書にも似た言葉がある

「自分を愛するように他人も愛しなさい」

似てないか、似てないな

聖人になりたいわけでもない

ただ私は

「私が同じ状況なら助けてほしい」

そう思っただけだ

だから助けるんだ

でも、それの根底には自分の感情が無意識に絡む

きっと優越感なんだろう

自分が助けて優越感を抱くのであれば

それは自分のためになるのだろう

なるのだろうか

自分のための行動は咎められるのだろうか

ダメなのだろうか

なぜダメなんだ

人を助けるのは悪いことじゃない

みんなが言っているのはそういうことではない

そういうことなのかもしれないけど

ただ私の心配もしてくれてる人がいるのだろう

私の優しさが無駄になってしまったら

哀れに思うその人の感情

「可哀想」という感情は

いい感情ではないはずだ

自分のことではないけど

胸糞悪いんだ

だからその感情になりたくない人は

私みたいな人間が近くにいると

その確率は上がる

結果が良ければいいが

結果が悪いと優しい人は

優しさを無駄にして悲しむだろう

そんな人間を哀れに思い

馬鹿だと怒りさえ覚える

何故そんな無駄な行為をしたのか

私ならやらないと

でも

 

それでも

助かった人は嬉しいはずなんだ

だから助けたかった

 

優しい人間は損をする

そうだろう

私は何度も後悔した

でもその場だけはその人の

安心した顔が見れて嬉しかった

いいことをしたという優越感が得られた

その感情の中毒者になってしまった

頼まれてないけど

誰かを必要とした

その誰かが私でもいいだろうか

 

私自身を必要としてくれる人はあまりいないけど

その「誰か」が早い者勝ちなら

私が勝ち取りたい椅子だった

 

私の優しさは不要だろうか